All Illustrations by N.O.B
鮫口が軍用機に書き込まれるようになったのは第一次大戦の頃からであるが、米空軍F-4E 戦闘機のファントムシャークマウス発祥の地はベトナム戦線であった。最初に鮫口で有名になった第388戦術戦闘航空団(388th TFW)は、F-105で1966年にはタイに派遣され、初期の北ベトナム爆撃作戦であった”ローリングサンダー”などの任務に参加していた。被害も多かったが、北ベトナムの鉄工所、発電所、航空基地の爆撃を担当し、迎撃に出たMigの撃墜も記録するなど数々の戦歴を残した航空団である。1968年にこの航空団はそれまでのF-105サンダーチーフに変わり、アメリカ本国エグリンからフェリーされた新型のファントムであるF-4Eを1968年に受領して、タイのコラート基地(Royal Thai Korat Air Base)をベースにホーチミンルートの攻撃作戦を展開している。20mm機関砲を機首に付けたF-4のE型は、対空戦闘をするのに目の前の敵に対し従来のミサイル以外の有効な攻撃手段として歓迎された。シャークマウスは、本来禁止事項であったが、実はエグリン空軍基地からタイのコラー空軍基地にフェリーされる前に、ベトナム戦で戦っている航空団の士気高揚の為に書かれていたのである。388th TFWの司令官の支持を得て,スティーブン大尉(画家でもあったらしい)が描いたのがきっかけらしいが、これを見た空軍上層部の指示でタイに到着前に消される予定だった。しかし鮫口を消せば他の迷彩塗装も一緒に消えると言う理由を付けて、1968年11月取敢えずそのままタイに送られている。しかし、タイに到着後、機体を見た現地部隊からの人気は絶大で、瞬く間に388th TFWの全機に増殖して描かれるようになったと言う。このシャーク・マウス(Shark Mouth)をF-4Eに描いたl航空部隊は 388th TFWだけに留まらず、同じくベトナム戦に参加した366th TFW(”LA,LC”のテールレター)や432nd TRW("ZF"テールレター)のF-4Eにも描かれるようになった。但し、描かれた数やバラエティの豊富さで、やはり388th TFWが圧倒的な存在だ。このページでは 後の51st CWや3rd TFWのF-4Eのシャークマウスの起源にもなった388th TFWのマーキングをご紹介していこう。

本項は、当初2006年8月に作成したものであるが、18年経過し古いイラスト等を作新して全面的に作り直して見た。ご参考になれば幸いである。(2024年1月)
↑ 388th TFWに何機か存在したレードームをタンで塗装したファントムの1機。ダイアンは、古代ローマ帝国時代の月の女神を指す。この機もベトナム戦を生き残る事が出来ず、1971年にラオスで対空砲火によって撃墜された。機首下面に付いているのはAN/ALQ-101 ECMポッド。
↑ 中国共産党が政治的に良く使った言葉の一つ、張子の虎と書かれたユニークなマーキングのF-4E-34-MC/67-0268。同機は、1968年11月17日にアメリカ本土のエグリン空軍基地からコラートへ到着して、496th TFSの所属となり、469th TFSの作戦部長ポール・レミング中佐の乗機となった。なお同機は1972年9月12日 北ベトナム上空でMig-21 1機を撃墜している。装着しているECM Podは、AN/ALQ-71(V)-2。
こうして見ると 1969年前後の同航空団のF-4Eには、シャークマウス(Sharkmouth)のバリエーションも多く、また迷彩塗装の効果を減じるような派手なマーキングを施している機体が、相当数あった事が分かる。調べると同一の機体でも時期によってシャークマウスの形状や迷彩パターンそのものが変化しており、オーバーホールの都度マーキングにも変化が生じていたものと推測される。上に掲げたF-4Eのほとんどは 機種の20㎜ガトリング砲の消炎カバーが付いていない初期のものであるが、1971~1972年に入ってからの388th TFWのF-4Eは、ほとんど消炎カバーを装着していたようであり、塗装規定が厳格化されたのか、各機個別のパーソナルマーキングも見られなくなっていた。シャーク・マウスの効用は、もちろん搭乗しているパイロットの士気高揚と、これを見せることにより敵に対する心理的恫喝効果から、第一~第二次大戦中も含め多くの軍用機に描かれてきたが、ことF-4Eに関してはシャーク・マウスを入れると機体がすっきりスマートに見えると言う二次的効果もあるので、より好まれたのだと推察する。(参照・・第3戦術戦闘航空団(3rd TFW F-4E Pages)のページで、鮫口のない機体とある機体を比較してご覧いただきたい)
↑上の部隊徽(インシグニア)は、第388戦術戦闘航空団(388th TFW)が、F-4Eを運用していた頃、388th TFWの傘下にあった2個飛行隊のインシグニアである。このうち 469th TFSは、F-105時代から388th TFWに属していた古兵で、コラート空軍基地で最初のF-4E飛行隊となった。後に編成された34th TFSとペアを組み388th TFWの主要戦力を構築している。ベトナム戦争で活躍したこの2飛行隊の運命は、その後明暗を分け、469th TFSは1973年1月のパリ協定によるベトナムからの米軍撤退開始を待たず、1972年10月に解散してしまった(後に、T-38練習機使用の訓練部隊として復活)。一方の34th TFSは、古い型のF-4Dに機種交換されて、暫くはタイにいたものの、1975年末に388th TFWと共にユタ州のヒル空軍基地配属となり、米本土に戻った。しかし 388th TFWがF-16A戦闘機の最初の配備航空団となったためファイティングファルコンの飛行隊となり、更に現在でもF-35AのACCレギュラーユニットとして健在である。
↑この機体も北爆に向かう爆弾を満載した写真で有名である。1968年11月にコラートに到着して、1か月もたたずしてホーチミンルートの破壊任務を開始している。彼らの主任務は爆撃で北ベトナムからベトコンに対する補給路を断つことにあった。トロ・ブラボとは、闘牛として育てられた牡牛の事で、戦わすために気性も荒い。インテークには撃墜を示す星マークが入っているが、休戦協定の関係で撃墜記録として正式認定を受けたものではなかったようだ。同機は1972年にはラングレー空軍基地の第1戦術戦闘航空団に移管されている。
↑ カラー写真で全体像も残っている機体の為、ベトナム戦での鮫口ファントムとして模型ファンにも人気のある388th TFW司令アレン・マクダーネル大佐の機体である。マクダーネル大佐は、ポール・ダグラス大佐の後任で1968年12月5日から388th TFWの指揮を執った。同機は、ベトナム戦では生き残ったものの、残念ながら1985年カルフォルニア州で墜落事故を起こし、2名のパイロットと共に失われた。
↑ 1969年にポール・ダグラス大佐が、同航空団を去って、本機は、グレディ・モーリス大佐が乗ることになったが、マークを鰐に変えて飛ぶことになる。
↑ 388th TFWの第17代司令官であったポール・ダグラス大佐の乗機 F-4E-35-MC/67-0288。ポール・ダグラス大佐は、第二次大戦中のエースであり彼の乗機P-47に書かれていいたマークをベトナム戦ではF-105(59-1743)とF-4E(67-0288)にも書き込んで戦った。
↑ 楽観主義者と書かれたファントムで、パイロットの性格を表現したものか・・1969年当時の同航空団には、こうしたパーソナルマーキングが多かった。同機は、1974年12月28日F-4E 71-0241と接触して墜落した。
↑1968年~1969年に掛けて第34戦術戦闘機中隊で活躍したファントムで、胴体左側に”裁判官がやって来た”という当時のヒット曲でラップの走りとも言われるPigmeat Marknamの名曲名が書かれている。この機体は、その後スイモアジョンソンの第4戦術戦闘航空団に移動し、私もネリスで撮影しているが、最後はトルコ空軍に売却された。
↑ ”Okie”とはオクラホマ出身の人の事で、本機のパイロットがそうだったのかもしれない。1930年代の大不況の時にオクラホマの農場を追われ、日雇い労働者として各地で農作業をしていたオクラホマの人は、オーキーと呼ばれ侮蔑の対象にもなったそうであるが、何でもして生き残ったと言うオクラホマ人の誇りとしても使われるらしい。但し、本機はベトナム戦を生き残れなかった。1968年ラオス戦線で対空砲火により撃墜されている。
↑ フリルの付いた大きなハートのマークを付けた鮫口ファントム、ハートに書かれている文字"TEE LOC"は、どうも彼らの駐留していたタイの言葉で「女友達、売春婦、バーのネーちゃん」とか言う意味らしい。このF-4E-34-MC/67-0269は、ムーディやジョージで使われた後、トルコ空軍に売却された。
↑ ”甘ーいパイ”と書かれているのは、インテークベーンの女性のシルエットからもお菓子のパイではなく、女性に関連した別の意味のようだ。”かわいこちゃん”と言うスラングでもあるので、恐らくそれのようである。とても有名な機体で、1972年9月12日には北ベトナムのMig-21を撃墜しているミグキラーだ。ベトナムを離れた後、フィリピンクラークの第3戦術戦闘航空団に移動したので、私の含めた日本のマニアにも馴染みの機体となった。
↑ レッキンクルーとは、解体業者を指すらしいが、1960年代にロスエンジェルスで活動していたミュージシャンの総称でもあったので、どういう理由で同機に書かれたかは不明だ。同機は1970年6月30日にラオスで撃墜され、パイロットは戦死している。
↑ 388th TFWの一般的な鮫口とは異なり、歯の大きさ本数が異なるユニークなもの。機首の20㎜バルカン砲口には消炎器を付けた後期タイプで、インテーク横に戦争大好き人間を表すウォーラバーのマーキングが小さく書かれている。1962年スティーブ・マックイーン主演B-17爆撃部隊の大尉の映画であるが、何の関連で書いたかは不明。この機体は、その後オーサンの51st CWに移動したので、横田で本機を撮影したマニアは多いのではないだろうか。
↑ 勇敢な野郎4代目 胴体のタンクの帯は航空隊長指定機だったことを表す。ベトナム戦以降はスイモアジョンソンの第4戦術戦闘航空団で使われ、エジプト空軍に売却された。
↑ 上二枚のイラストは、同じF-4E/67-0342であるが、年代にとってマーキングが異なっている。下の”Easy Rockkin Mama Ⅱ”は、この機のパイロットだったジョージ・コ―大尉の父親が第二次大戦中にP-51ムスタングに付けていたマークの二代目である。この機体も最後はトルコ空軍に売却されている。
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